「幻想工房」の雑記帳。 管理人の頽廃的でデカダンな日々を赤裸々全裸に記録
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『秀吉神話をくつがえす』 読了
2007-12-20 Thu 00:48
『秀吉神話をくつがえす』(藤田達生・講談社現代新書) 読了
hideyosi-myth
「秀吉神話」より、本能寺の変がメイン
自説への批判に対する反論に終始しているのが大きなマイナスポイント
まず、秀吉メインの内容を期待してこの書籍を手によると後悔することだろう。
これは、本書の構成からも一目瞭然である。
 序  章 「秀吉神話」の系譜 14ページ
 第一章 戦国時代の「悪党」 36ページ 
 第二章 本能寺の変 92ページ
 第三章 関白の平和 82ページ
 終  章 軍国神話の誕生 23ページ
分量的に実に4割弱は本能寺の変について言及されている計算になる。
実は、この「第二章 本能寺の変」については伏線がある。これは著者である藤田先生の前著『謎とき本能寺の変』に端を発している。同書の中で、著者は本能寺の変について「足利義昭首謀説」を説きその論拠を示された。もちろん巷に溢れる様な「推理小説ごっこ」ではない。だが、根拠となる史料の質、その解釈に疑問があり、かつまたその論証において「足利義昭首謀説」は致命的な矛盾点を抱えていた。当然、この後多くの研究者からの批判に晒された。それに対する反論・論駁が第二章においてなされている感がある。
当然のことだが、『謎とき本能寺の変』や同書を批判する書籍(『だれが信長を殺したのか』『信長は謀略で殺されたのか』など)を読んでいないと全く意味不明な構成になってしまっており、これが本書の最大の問題点である。
また、この本能寺の変を光秀閥と秀吉閥の政争の延長線上に捉える視点はなかなか興味深い(ただ、これも『だれが信長を殺したのか』で言及された内容と大差はない)のだが、これをもって織田政権内部での政争に勝利した秀吉が、敗者の光秀による謀反を予想し得た、というのはさすがに論理に飛躍がありすぎると感じた。他にも、本能寺の変に関する疑問点はあるが、レビューの末尾に譲ることとする。

秀吉に話を戻そう。
まず、「秀吉神話」については少しでも歴史を囓った者であれば疑ってかかっているだろう。
「太閤はん」を慕う人も多いのは事実だが・・・ さすがにこれを頭から信じ込む様な単純な人間は少数派だろう。また、秀吉を「非農民層出身」とする見解は網野善彦先生がとっくに唱えている内容で、特に目新しさはない。
「終章」において「秀吉神話」が膨張主義的な国策によって生み出されたものである、また今日の日本社会に於いてこういった膨張主義政策に利用されることを危惧する様な結論になっているが・・・ 正直、読んでいて突飛な感じがしたことは否めない。最も読み応えがあったのは「豊臣平和令」に対する反論だが・・・ これもいまさらといった内容ではある。そもそも「惣無事令」は豊臣家による武力統一を容易になさしめる目的で発せられたことは自明(仮に九州や関東・東北地方を切り取り自由の戦乱状態で放置すればどうなるか。九州は島津氏が、関東・東北地方は北条・伊達連合が制圧してしまう。これは豊臣家による天下統一の障害にしかならない)である。また、朝鮮出兵からも豊臣政権の好戦的な性格は明らかに見て取れるのだが・・・
他にも、『武功夜話』の史料的価値を肯定的に評価されているが、これも如何なものかと思う。もちろん、「原史料にふれることなく批判」(p53)する現状にも問題があるだろうが、これは『武功夜話』(「前野家文書」)が非公開である以上、仕方のないことではないだろうか。部分的にでも原文を読めば判るはずだが、現代人感覚によって著述されていることは明らかな文章ではないだろうか。こういった点も含め、正直不満の残る内容だった


蛇足
本能寺の変について
「足利義昭首謀説」あるいは「足利義昭推戴説」の問題点を自分なりにまとめてみた
まず、この説の根拠に挙げられる史料について

「河隅越中守忠清書簡」
まず、日付が曲者
実物が存在せず、『歴代古案』と『覚上公御書集』に写しのみが伝来しているが、『覚上公御書集』には六月三日の日付と宛先の「直江与六殿」が認められ、『歴代古案』には欠けている。この時点で、これを六月三日の書簡と比定することに慎重になるべきではないか。
また、書簡の内容が伝聞である点も見逃せない。須田相模守の奉公人が「才覚申分者」(奉公人自身の才覚で=予断)で語った内容を、さらに河隅越中守が書簡で春日山城の直江兼続に送って寄越したものである。どこまで信をおけるか。
また、他にも不自然な点がある
 ・この当時、須田相模守は魚津城で柴田勝家軍に包囲されていた
   光秀は勝家に情報が漏れるリスクを犯してまで須田ルートの取次に拘泥したか?
 ・「明智の所」で明智光秀だと断定できるのか?
   明智姓の武将は多く、これで書簡の受取り手が明智光秀だと断定できるのか
   断定できるとすれば、
     a)既に、景勝首脳陣と光秀の間で信長謀殺計画について合意が得られていた
     b)「明智」=光秀、と連想するのが自然 つまり本能寺の変が確報であった時期
の二つのケースが考えられるが・・・やはり、日付が怪しい以上はbが自然だと思う。
また、文中の「御当方無二御馳走申上由」についても、「御馳走」の対象を足利義昭とする解釈には無理を感じる。

「土橋平尉宛光秀書状」
これについては、現在考察中

しかし、やはり「足利義昭首謀説」には無理があると感じる。鞆の浦において幕府を維持しており、一定の工作活動を行っていたのは事実だろう。多くの文章は残してはいるが、光秀がその権威をどこまでアテにしていたか微妙なところだろう。傍証として、『晴豊記』の記述を挙げてみる(『だれが信長を殺したのか』より)
 「者共退け、禁中小屋懸いよいよ正体無き事也」
とある。
文中に見える「小屋懸」は、本能寺・二条城の火災によって焼け出された避難民が仮設住居を構えていたことを示している。この状態は秀吉の入洛まで続いた。要するに、光秀は禁裏を荒れ果てるままに放置していたことになる。光秀が乱を起こすに際し、さほど「名分」には拘っていなかった傍証だと言える。また、仮に足利義昭の内意を得ているなら、細川幽斎を説得する際にどうしてその事実を伝えなかったのか、疑問が残ることになる。
「首謀説」はもちろんだが、「推戴説」もこれらのことから、やや根拠が薄弱だと思われる。
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